目黒のサンマと、モーツァルト

秋といえば、秋刀魚ですね。しばらく前に、1尾50円!ということで2尾買って、すぐに全部焼いて食べたら蕁麻疹出ました。時々、魚アレルギーなんです、私。

ある時、江戸のお殿様が目黒辺りに狩りに出掛けました。空腹のため、付近の民家で秋刀魚を馳走になったところ、これが実に旨いのです。後日、城内での宴の際に、庶民の魚である秋刀魚をわざわざ所望するほどでした。ところが、これが全然おいしくない。産地を聞くと、魚河岸でプリプリのものを求めてきたとのこと。そこで殿様は仰せになります。「いかんいかん、秋刀魚は目黒に限る。」

これは落語の名作、「目黒の秋刀魚」です。解釈としては、お城の料理人が万一の事故などないようにと骨を除き、工夫を凝らしすぎて素材を台無しにしたという教訓であったり、魚や肉などは野菜と違って時間を置くことでタンパク質の変化により旨み成分が生成されるので、実際に内陸の目黒に運ぶくらいの熟成具合がちょうど良いなど、いくつかの説があるようです。しかし、私が強く感じたのは、心に残るおいしさというのはその時、その場所だからこそのものだということでした。もちろん、それを産地という単純なレッテルに置き換えてしまった殿様がおかしくて、可愛いわけですが。

これって、味覚に限らず、芸術体験一般に言えることかもしれません。例えば最近、モーツァルトについて読む機会があったのですが、彼はその時その場所で、目黒のサンマにはなれなかったアーティストです。同時代の人には訳が分からん、ひねくれすぎだ、と言われ、次の時代、19世紀には、なんつーかフツー過ぎるよね、とか言われちゃう悲運の天才です。20世紀後半に再評価され、あのサンマはヤバいよね、やっぱりサンマはウィーンに限る、なんて言われることになる訳です。

そんなモーツァルトや、他のクラシックの大家を評して、「彼らが現代に生きていたらヘヴィーメタルをやっていたはずだ」という議論になることもありますね。私は、こういう想像が大好きです。彼らがみんな弦楽バンドやオーケストラの譜面ばかり書いたのは、それしか楽器がなかったからです。増幅技術(アンプのことです)やシンセサイザーがあったら、彼らがいわゆるクラシック音楽の枠にとどまる理由もないでしょう。当時はとにかく、でっかいオケに弾かせなきゃ観客みんなに聞こえないわけですから。モーツァルトが本当にやりたかったのが Led Zeppelin だったとしても、The Stooges だったとしても。

そうそう、東京の目黒図書館には、サンマ型の机があります。以前、遠征時に立ち寄って感動しました。疑いなく、私が今まで見た中で一番ロックしている公共施設です。

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