日本語(特にカタカナ言葉)の表記方法のお話です。歴史的事実をもとに、一部個人の憶測や妄想を交えて解説します。
今から数世代前、PCオペレーティングシステム「Windows 7」のリリース時、一部の目利きの間で話題になったのが「マイコンピューター」フォルダーでした。それ以前、Vistaまでは「マイコンピュータ」フォルダだったものです。この長音記号(「ー」)の有無が、今回のテーマです。コンピューターかコンピュータか、フォルダーかフォルダか、セキュリティーかセキュリティか、そういえばどっち使ったら良いんだろう?というときに参考になるかもしれません。
カタカナ語の表記で、このような語尾の長音記号を省略するのがナウかった時代がありました。そして今でもそのファッションを信奉する方もいらっしゃいます。一方私は、そのような懐古厨をディスって断罪することに自分のミッションを見出してしまいました。その理由は2つ。
- この表記規則は廃版となった旧規格である上、そもそもの存在理由が現代ではアホすぎる
- この様式の盲信者は九割九分、本来の規則すら理解していないエセ原理主義者にすぎない
まず理由1から。この表記規則の根拠は、旧版の日本工業規格(JIS Z 8301)です。要点は以下の通り。
- 3 音以上の場合には,語尾に長音符号を付けない。
ブラウザ、プリンタ、スキャナ、ドライバ、フォルダ、モニタなど - 2 音以下の場合には,語尾に長音符号を付ける。
キー、バー、エラーなど
しかし工業規格は時代に合わせて改訂されます。この規則も2000年代の改訂でお墨付きを失い、「『外来語の表記(平成3.6.28 内閣告示第2号)』に従うことにしようよ、まあギョーカイ的にどうしてもだったら旧JISを踏襲しても良いけどさ」となりました。この内閣告示方式では、基本的に長音記号を付けることになっています。
ソモソモ論として、旧JIS長音省略ルールの存在理由を一言で言えば、「文字数を少なくしたい」というだけです。そりゃ昔はね、版を組む(印刷用に1文字ずつのハンコを並べる)作業の効率を考えれば、同じ情報量を伝えるのに1文字でも削れればそれが絶対正義ですよ。でもこの21世紀に、活版印刷の効率化のために他の犠牲を払う動機など何もありません。つまりこの旧JISルールは、そろばんよりもコンピューター、活版印刷よりもDTPといった、その時代において利用可能な技術に応じた周辺規格のあるべき姿として、極めて真っ当に役目を終え、姿を消したのです。
そして理由2。井戸の中から見た青空を唯一の原風景として育った蛙たちが時おり、口角泡を飛ばしながら主張します。「これが理系的にかっこいい文法だぜ」と。でもね、あなたさっき「個人情報保護方針」のことを「プライバシーポリシー」とか書いてなかった? それって、旧JISルールでは「プライバシポリシ」になるはずなんだけど、そこまでちゃんと原理主義やってる? そうでないなら、黙ってろ。
旧JISこだわりも結構なんですが、時代的に旧JISが錦の御旗を失った後くらいで一般化した「個人情報保護方針」のような新しい言葉をきちんと旧JIS変換できるだけの「リテラシ」がないなら、それは浅い。残念ながら私は、旧JIS戦士の中にそのレベルの一貫性を見たことがありません。浅い思考停止をコダワリと呼ぶなら、それはもう長音記号を云々する以前に生き方として問題があります。
少し話が変わりますが、もう一つの論点として、長音記号を付けるのと付けないのと、どっちが元の英語の発音に近いのさ?って問題もあります。これはやや微妙で、特にYで終わる「Security(セキュリティー)」や「Binary(バイナリー)」では、どっこいどっこいと言えます。一方、ERやORで終わる「Computer(コンピューター)」や「Monitor(モニター)」では、長音記号アリの方がやや英語に近いです。しかしこれはそもそも出発点からして無益な議論でもあり、カタカナ化した言葉を英語に戻すというのは、魚の干物をもう一度泳がせたいというくらい無謀な挑戦だということは知っておかなければなりません。
それより深刻な問題は「Parameter(パラメター)」や「Interpreter(インタープリター)」です。どちらも2音節目を強く発音する単語であり、前者について言えば、「パラメタ」は旧JIS的にOKですが、よく見かける「パラメータ」は完全に的外れ。後者については、旧JISエセ原理主義者がよく「インタプリタ」と書きますが、これまた完全におかしいです。英語では2音節目の「TER」を強く長く発音することに加え、旧JISでも単語の途中にある長音記号を省略するルールなど存在しないからです。「プライバシポリシ」と違って、これ1語ですからね。「インタ」+「プリタ」じゃない。
今後おそらく10年20年かけて、旧JIS表記の亡霊も徐々に成仏していくことでしょう。しかしその過程は単純な関ヶ原ではなく、例えば「パラメター」vs.「パラメタ」vs.「パラメーター」vs.「パラメータ」みたいな四つ巴の争いがどんな風にグダグダと展開していくのか、なかなか気になるところです。
この表記問題に限らないことですが、物事の正誤判断や評価の基準として「なんとなく見慣れている」とか「これが普通だから」という要素に頼りすぎると、本質や真理といったものからどんどん遠ざかってしまうというのはよくある罠です。しかしそこからもう一段掘り進めると、全体像やカラクリが見えてくることがあります。そういう冒険って、楽しいですよね。